お知らせ
『詩人会議』という雑誌の11月号の投稿欄「青い窓」に、拙作『アフリカン・ビューティ』が載ることになりました。書店で雑誌を見かけましたら、是非ご覧になってみてください。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
『詩人会議』という雑誌の11月号の投稿欄「青い窓」に、拙作『アフリカン・ビューティ』が載ることになりました。書店で雑誌を見かけましたら、是非ご覧になってみてください。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
篠見那智さんは、あヽノ会でご一緒させていただいている僕の連句仲間です。僕とは半世紀の年齢差がありますが、僕があヽノ会で連句を捌いた後に電話でいろいろとアドバイスをしていただくなどということもあり、「那智さん」と呼ばせていただき、親しくさせていただいてます。とてもお上品で貴婦人のような那智さんの出される句は、時にロマンティックであり、時にミステリアスであり、またある時はユーモラスでもあります。
那智さんは、あヽノ会で連句を始められたのですが、本来は「沼尻巳津子」さんという俳人です。以下、那智さんの句集『沼尻巳津子句集』(ふらんす堂)の中から三句紹介します。
ゆくてゆくてと秋の炎上はじまりぬ
「秋の炎上」というのは、紅葉のことですね。まさに燃え上がるような美しい紅葉を「炎上」という激しい表現を使うことによって、その深い感動をダイナミズムとともに表現しています。
けふ我は揚羽なりしを誰も知らず
「今日、私は揚羽蝶だった」というのは無論、全くの虚構なのですが、とてもユーモラスなこの句の向こう側に、まるでいたずらっ子の少女のように微笑む那智さんがいるような感じがあり、面白いです。
夕焼くる大和よ恋も死もあまた
小高い丘から街を鳥瞰しているのでしょうか。この国には多くの人々は住んでいて、皆それぞれに恋をして、死んでゆく。そんな当たり前のことが、街を優しく包み込むような夕焼けの魔法によって、感慨深く胸に押し寄せて来たのでしょう。人間の歴史の荘厳さを感じる句です。
今月は事情があり、あヽノ会に出席しそこねたのですが、来月は必ず出席して那智さんと一緒に連句を巻きたいものです。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
フランス語と日本語は、まったく関係のない言語のように思えますが、最近、山並陞一氏の著作『語源でわかった! 英単語記憶術』(文春新書)を読み、面白い事実を知りました。
「臓器提供者」のことを英語でdonor(ドナー)といいますね。これはフランス語のdonner(ドネ=与える)と語源を同じくしています。これらの語源はラテン語のdonere(ドネーレ=くれてやる)に由来するそうです。さらにこの言葉は、印欧語のdo(ド=くれてやる)にまでさかのぼれます。この印欧語のdoがサンスクリット語に入ると、dan(ダン)になります。このサンスクリット語が日本語に入ってきて、「お寺にお布施をする(お金を<くれてやる>)人」を「檀家(ダンカ)」といい、「衣食住を<くれてやる>人」のことを「旦那(ダンナ)」というのだそうです。
フランス語と日本語は、遥か昔の印欧語で、わずかにつながりを持っていたのですね。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
Ochanomizu est 御茶ノ水 en kanji.
Ça signifie “l’eau de thé”.
Au début de EDO époque(le début de XVIIe siècle), il offre respectueusement l’eau de source près d’ici au SHOGUN Ieyasu Tokugawa pour son thé vert.
SHOGUN(将軍) = le président du gouvernement militaire par les samurai
Ieyasu Tokugawa(徳川家康) = le fondateur de EDO BAKUFU(江戸幕府)
BAKUFU(幕府) = le gouvernement militaire par les samurai
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
僕は今、どこにいるのだろう?
地図のない世界 赤黒い夕暮れ
手の中に、デジタルな小窓
文字だけの世界 それだけが現実
ほのかに差す光を吸収し
僕の中に怪物が育ってゆく
知られてはいけない、怪物がいる
体中、鉄の空気が満ちる
吐き出そうとして、ため息をつく夜
怪物は今日もまた太る
小窓の中の夢 見たことのない笑顔
向こうに差す光を想像し
胸の中の透明なドロップは
甘くて切ない、ふしぎな味だ
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
そのうちマッキンノンさんの写真のコピーがリンコーナさんから宮川君に、彼から私に送られて来た。一枚は金澤時代のもの、エキゾチックな苦みばしった容貌は、今ならタレントとして通用するであろう。高月夫人が美男子と言われたのも尤もで、西教授が私以上に旧制高校生らしいと言われた凛々しい羽織袴姿であった。
もう一枚は平成五年、つまり亡くなられる前年、講演で姉のリンコーナさんと小樽にいらした時、北海道新聞に載ったものだ。
戦後五十八年、日米のはざ間で苦労されたマッキンノンさんご一家の事を是非知って貰いたいと思ってこの記事を書いたが、リンコーナさんのご了解も得ておく必要があると思った。
リンコーナさんから事実と違った記述がある、電話では又間違う可能性があるから、一度お会いして話したいと言ってこられた。
二月九日、日曜日の午前十時、都ホテルのロビーで落ち合った。リンコーナさんは私より十歳は年上の筈であるが、私と同年位にしか見えなかった。容貌も私の目にはは百%の外人であり、しかも眩しいほどの美人で、津田出身であられた。リンコーナさんに間違いを指摘して戴き、あとはご一家の事を色々お聞きした。
十九歳で母上に分れたマッキンノンさんは、母に何も尽くさなかったのが心残りだと悔やまれたという。それならお母さんの横に葬ってあげようか、とリンコーナさんが言うと、是非頼む、と応えられたとか。今、母上の傍らに眠っておられるのだから、これ以上の親孝行はあるまいと私には思われた。
リンコーナさんは、母は本当に立派ないい人でした、と言われた。実の娘にそう言われるのだから、母上はよほど人格の高い方であったのであろう。また歌人でもあられた。三人の姉弟に残された短歌のうち、特に述懐として詠まれた次の歌に私は強く心を打たれた。
<今更に何を嘆かんかかる日の いつかはありと思ひ知りしを>
戦前戦中を通じて母上には筆舌に尽くしがたいご苦労、ご心痛があった筈である。それを直接に歌われる事なくこの様に詠まれたのだ。
ここには悲しいとか、辛いとか、そんな言葉は一切使われていないのに、誰の胸にも大きな断腸の悲しみが伝わる筈である。これは歌人として並大抵の力量ではない。
私は東京の生まれではない。多摩墓地に葬られるのは異郷の地に眠る事になるのだが、近くに先輩のマッキンノンさんの墓がある事を思えば、私の死後はもはや孤独ではない。
私が普段姿でマッキンノンさん!と呼ぶ。マッキンノンさんは、何だ、君か、上がれ、とおっしゃる。母上に、ママ、川野が来たのでお茶を淹れて下さい、と頼まれる。
私の側には先輩がいるのである。
私はリンコーナさんの口をついて出る滑らかな日本語を、不思議な気持で聞いていた。
(この写真の掲載をお許し下すったリンコーナさん、北海道新聞、及び突破口となった横山先輩に心から感謝します)
(川野蓼艸氏寄稿)
この写真は、蓼艸さんから送られてきたものです。左側が亡くなる前年、右側が四高時代のマッキンノン氏の写真です。
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
Ochanomizu est Quartier latin japonais. Il y a beaucoup de librairie et boutique de instruments de musique.
Dans cette photo, il y a le pont qui porte le nom de Hijiribashi(Pronocez “h”.). Ce nom signifie que “le pont saint”.
御茶ノ水は日本のカルチエ・ラタンです。多くの本屋さんと楽器屋さんがあります。
写真には「聖橋」という名の橋が写ってます。「聖なる橋」という意味です。
| 固定リンク | コメント (11) | トラックバック (2)
私は早速日野市の佐久稔さんに電話したが、
佐久さんは意外な事を言われた。
「私はマッキンが逮捕された時には蹴球部の塾にいたんです。しかし私は朝寝坊で下へ降りて行った時にはマッキンは既に連れ去られて行った後でした。私は堪りませんでした。仲のいい彼と別れの挨拶も交せなかったのですから。
その晩、私は菓子を持って彼の監禁場所へ面会に行きました。彼は私を見つめ、私の手を放そうとはしませんでした。
私の頭の中にもマッキンとの三年間近くの思い出が走馬灯の様に駆け巡りました。何しろ蹴球部で一緒に球を蹴り合い、共同で他校のチームに当ったんですから。彼もそうだったと思いますが、私はこれが二人の今生の別れだと思いました。佐々木はマッキンに音楽的素養がないと言いましたか。おかしいなあ。
彼は茶寮近くの教室にあったボロピアノで乙女の祈りくらいは弾いていましたよ。音楽は相当に詳しかった筈ですよ。」
そのピアノは私達の時には講堂の控室にあった。鳴らない鍵すらあった。私はお姉さんのリンコーナさんに電話した。
「父がリチャードにピアノを教えていましたから簡単な曲なら弾けた筈です。」
との事であった。するとマッキンノンさんが楽想を練り、佐々木さんに歌って見せ、これ、どうだい、うん、いいんじゃない、こんなやり取りがあって、あの寮歌は作曲されたのに違いない。佐々木文平共同作曲になっているのはマッキンノンさんの思いやりだったのであろう。
マッキンノンさんの一年下でハーフ・レフトだった横浜の斎藤仁先輩は二人で時計屋に時計の修理に行かれたとか。
「時計屋がお名前は、と聞きますと、彼はぶっきらぼうにマッキンノンと言ったんです。
すると時計屋は、あゝ、牧野さんですね、と答えたものです。」
そうするとこの頃のマッキンノンさんはエキゾチックな容貌であったが、日本人に見えたのであろう。晩年の写真では外人にしか見えなかったのであるが。
彼とアメリカで付き合いのあった私と同学年の宮川隆泰君は彼は外人としてはそう大きくなかったと言うが、蹴球部の人達は一様に我々の中では一番大きかったと言う。佐久先輩は
「彼がフルバックにいると大きいので安心でしたね。でもどっちかと言えばぶきっちょでしてね、へっぴり腰で小回りは利かず、でも突進する時はするんだな。」
と愛情のこもった言い方をされた。
マッキンノンさんは戦後何度も来日され、昔の同級生や蹴球部、寮の友人にも会われた由。同級で蹴球部のフォワードだった世田谷の高月東一先輩に電話したら、何とパーキンソンで逝去された直後であった。
私はまず非礼を詫びたが、夫人は嫌な口ぶりもされず、
「マッキンノンさんは色白で大きく、それに何と言っても美男子でいらっしゃいました。」
と答えて下すった。
矢張り同級の植田茂先輩も脳梗塞で入院中で最早会話は不能でいらした。植田夫人も、
「主人は蹴球部ではなく登山部でしたが、マッキンノンさんとは仲がよく一緒にお茶を習いに行っていたとか。それも甘いもののなかった日中戦争の最中でしたから、お菓子が目的だったと主人が申しておりました。あの大きなマッキンノンさんが子供の様で。成績もよく人気者でいらしたそうです。」
と言われた。
マッキンノンさんの骨を多磨霊園に埋葬する時、蹴球部の人達が中には夫人連れで立会い、リンコーナさんのお宅で偲ぶ会も開かれたと聞いた。私は彼らの友情に感動した。一人の外国の旧友をこの様に暖かく包みこんだ例は、周囲を見ても聞いた事がない。
(川野蓼艸氏寄稿)
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
Kameari est 亀有 en kanji.
Ça signifie que "Il y a la tortue(animalle)".
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)
最近のコメント