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2006年1月31日 (火)

我が卒後五十年録 第2回

やがて二次会の余興が始まり、仕舞をやるのがいた。紋付袴で仲々のものだった。地は約束で私が勤めた。

ドン・ジョヴァンニのデュエットを歌った夫婦もいた。最後は童謡やら小学唱歌を皆で合唱して終わった。上のバーで三次会も開かれ、卒後五十年の感慨にふけった。

翌日はバスを仕立てて屋島観光に向かった。瀬戸大橋を渡るのは始めてであった。

屋島は嘗ては文字通り島であったが、現在、四国本土と陸続きになって、その部分は高松市のベッドタウンになっていた。しかし源平合戦の跡はきちんと整備されて残っていた。

那須与一が南無八幡大菩薩と祈った石は今は道路の地中にあるのだが、アスファルトを深く掘り込み、その石が見える工夫がしてあった。

与一はざぶざぶと海に駒を進めて矢を放ったのだが、波で馬の足が揺らぐのを防ぐため、大きな岩の上に馬の前足を乗せて固定した。その岩が小さな川の中ほどにあった。たたみ一畳分ほどの大きさで潮が満ちると海中に隠れるというが、私たちの時には運よく全貌が見えた。この岩の上の若者の弓から放たれた矢は虚空を飛び、扇は海に散ったのだ。

付近に安徳天皇の行在所跡、飛んでくる平家の矢が義経に当る瞬間にさっと中に入り、彼の身代わりになって死んだ奥州から付き添って来た佐藤継信の墓もあった。

岡山在住の者が説明に当った。安徳天皇を後醍醐天皇と言ったり、行在所をギョウザイショと発音すると、私が安徳じゃろう、アンザイショじゃろうと訂正するので、

「あんたがおるとやりにきいなあ。」

と彼も岡山弁で答えた。

 「平家は源氏が海からやってくるものと思い、北を向いて防備を固めていたらしい。ところが義経は徳島に百二三十騎で上陸し、平家の背後を襲って平家は海に退いたらしい。」

「俺も嘗てその話を聞いたけどなあ、それはちいと可笑しゅうねえか。平家は五千人もおったんじゃろう。後ろから来たら、すぐに後ろを向いて百二三十人くれえ、寄ってたかって引っぱたけば勝てたはずじゃがな。」

「そねん事を僕に言われても、僕はそこにいた訳じゃねんじゃから。あれじゃねんか。当時の防備は一番前に楯を並べて矢に備え、前の方に腕っ節の強ええのを並べ、大将は一番後ろにいて、やはり後ろは弱かったんじゃねえんかなあ。」

私は高松からJRに乗り、夜の瀬戸内海を渡り、岡山から東京に着いた。便利になったものだ。

               (川野蓼艸氏寄稿)

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