蓼艸さんから久々に原稿をいただいたので、さっそく掲載します。全3回です。蓼艸さんの名調子で語られる味わい深いエッセイをお楽しみ下さいませ。
一昨年の平成十六年は昭和なら七十九年であった。私達は昭和二十九年に大学を出ているから、一昨年が卒後五十周年に当っていた。岡山に集合し盛大な記念会が開かれた。
昭和五十九年、卒後三十年に集った時は死者はまだ七・八名であった。招待した小児科の名誉教授は言われた。
「亡くなった人が一割未満というのは、このクラスは優秀やなあ。しかしこの先が早よまっせ。」
本当にその通りだった。卒業生八十名のうち二十六名が他界していた。当日、彼等の未亡人達も招待し、十名ほどが出席した。
大多数は医師になり、小数の者は基礎医学を専攻して学者となっていたが全て退官していた。医師も現役は約半数で、多くが息子や娘に代を譲っていた。
お互いに昔を知っている仲だし、七十五歳も過ぎると気取る必要もないので皆日頃の自分を淡々と語った。
「男の子は幼時に小児癌で亡くなりました。家内は中年で白血病で死にました。今、四十歳半ばの独身の娘と二人暮らしです。一度は結婚してみろ、人を愛する生活を経験してみろというのに、聞く耳を持ちません。デザイナーですが、年をとればセンスも古くなります。私は娘が一生遊んでも暮らせるだけのものを残してやらねばなりません。毎日せっせと働いています。」
という話は身につまされた。ダウン症や脳性小児麻痺の子供を持つ者もいた。
坊ちゃんで有名な松山中学を出、松山高校を経て一緒になったのがいた。背は低いが頑丈な体格でラグビーをやり、縞柄のジャージーが似合い、トラちゃんの愛称で呼ばれ、何をしても憎めない男がいた。
彼は地元の松山で外科を開業し、盛業であったが、交通事故であっけなく死んだ。未亡人が立って言った。
「夫は飲む、打つ、買う、の好き放題で死にました。思い残す事はない筈です。毎晩、三百六十五日、夜は外でした。
深夜、ホステスや芸者に送られて帰ってくる事もありました。バーも梯子です。夫の足の遠のいた店の経営者が、奥さん、いい子が入りました、先生にお出でくださる様にお伝え下さい、と電話される事もありました。(笑)
私は夫に性病だけは移さないでね、と言いましたら、大丈夫じゃ、大丈夫じゃ、と申しましたが、どこまで大丈夫だったのやら。(笑)
根はぶきっちょで車の免許も持っていませんでした。あんたが居らんかったら、わしゃ何もでけん、わしより早よう死ぬな、と常に言っていました。
普通の女だったらとっくに離婚していると人は言い、私もそう思いましたが、別れようにも実家は弟が跡を継いでいましたし、私も夫と別れたら一人で食べていく技は何もありませんでした。結局、別れず仕舞で(笑)、交通事故であっさり死んでしまいました。
事故の原因ですか。家の前はかなり大きな通りですが、湾曲していて拙宅はその突出部の様な場所にありました。左右の見通しは悪く、横断歩道はあったのですが、近くの信号灯と距離がないと言う理由で信号はつけて貰えませんでした。
昼、夫はふらっと外出して事故に会いました。
家の前ですからすぐに救急車を呼びました。車内で夫は、これであんたより先に死ねるな、と言いました。それが夫の最後の言葉でした。病院に着くまでに死にました。でも憎めない人でした。誰からもトラちゃんと呼ばれ、患者さんたちもトラちゃん先生と言い、一生を終わりました。
やがて家の前に信号灯がつけられました。近所の人は、これは先生がつけてくれたのだ、と言ってくれます。
私もその横断歩道を渡る度に、これが夫の唯一の遺産なのだと思います。医院は息子が継ぎ私は隠居です。」
高知から来た友人の話も気になった。
「自分には娘が二人いました。長女は東京の桐朋音楽大学に進んでピアニストになりましたが、医師に嫁ぎ現在ではピアノをやめ、歌人になっています。下の娘は女医になり、内科に入局させました。ところが不意の事故で夭折してしまいました。私の跡継ぎはなくなりました。」
と言って私の隣に坐った。
彼と私は仲がよかった。上の娘さんは生後間もなく彼の家に行き自分の手に抱いた事があった。桐朋音大に入ってからは調布市内に学校があったから、拙宅にも来た事がある。風邪を引いて私が往診した事もあった。
私は隣の彼に聞いた。
「不意の事故とは何だ。」
「まあ何だな、鬱になってね、病院に行かなくなったんだ。そのうち酒に親しむ様になってね。」
「依存症になったのか。」
「そうなんだ。ある日、酒のあとで吐いてね、誤嚥をおこして窒息死したんだ。呆気なかったな。
上の娘はすっかり気落ちしてね。精神的なストレスでなる事もあると聞いたんだが、中心性網膜炎となって視力が落ちて楽譜が巧く読めないんだ。結局は音楽は諦めて短歌を詠む様になった。最近、歌集を出した。」
「何、マリちゃんが歌集を? 俺も多少は短歌をやる。帰ったら川野にそれを送れと言ってくれないか。」
私の娘とほぼ同年であったから四十歳半ばの筈であった。
(川野蓼艸氏寄稿)
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