旧制高校 第2回
私は京大医学部を失敗し岡山に拾って貰った。世が世ならこんな田舎大学に来るんじゃないのに、と思ったが、それは飛んでもない思い上がりであった。岡山に入れなかったら私はとても医師になってはいなかった。
父は旧安田銀行、のちの富士銀行勤務で、父の収入や転任の事を考えると、とても私立医大に行く金を父に出させる勇気はなかった。かと言って新制大学に行くのは一種の落第であり、新制になってからの皆さんには大変失礼な言い方で申し訳ないが、プライドが許さなかった。
私たちの授業料は確か一年で三千六百円だったと思う。インターンで慶応の人たちと一緒になり、それが二万円だと聞いて私は驚いた。当時、私は万単位の金は見た事もなければ触った事もなかった。
金沢の旧制高校同窓会本部から昭和二十四年理乙卒業者の名簿作りを命じられた時、正直言って迷惑であった。先輩たちは皆年配者であり、殆どが旧帝国大学卒業であった。
私は彼らの体臭の様なもの、特にエリート意識が嫌いであった。この時も少し身の廻りを調べて、それでお茶を濁す積りでいた。
本部から昭和二十四年理乙全卒業者の名前を列記し、少数の住所判明者だけ印刷した用紙が送られてきた。
理乙は三クラスあり、全部で百二十名であった。卒業時の集合写真三枚は何とか集った。しかし卒後二十三年という歳月は意外にも個々の間を砂の様に埋め尽くしていた。古代の遺跡を発掘するのにも似た困難が待ち受けていた。Pの事を知ろうと思えばQを調べねばならず、Qを探すためには又誰かを追及しなければならなかった。私は推理小説を読む様な面白さに次第にはまっていった。
連日、北海道から九州まで電話をかけまくり、それぞれの消息を確かめ、不明者の住所を探し出そうと努めた。
驚いた事に多くの者は自分が何組に属していたかを覚えてはいず、受持の教授の記憶も定かでなく、卒業時のそのクラスの集合写真のコピーを送っても、自分以外の友人の名前と顔が分らず、果たしてあの三年間の生活は実在したのであろうかとすら思えた。
私は常に調査方法を考えた。昔、私と妻が結婚の挨拶廻りをしていた時、新宿の地下道でAに会った事を思い出した。その時の名刺には確か最高裁図書館勤務と書いてあった。
翌朝、早速最高裁に電話した。図書館のA、ああ、富山県の人ですね、と言われたのには驚いた。人事の事はこれだけで分るのか、さすが最高裁だと妙なところで感心した。
彼を知った事は大きかった。官庁関係の事は大抵彼で間に合ってしまうのだった。Bも何の手がかりもなかったが、誰かが彼の父親は陸軍中将で南方で戦死したはずだと言った。
これもAが厚生省にあたり、B中将の本籍は福井市と分った。福井市は既に東京板橋区に転籍と伝えてきた。
板橋区は、それは何々出張所の管轄だと言い、何々出張所では現住所が知りたければ付票交付願いを出せ、と言った。それによってやっとBの住所が判明した。電話番号を調べ、三ヶ月かかってやっと彼の声を聞く事が出来た。戦時中に出来た信州医大を出て開業していた。
彼とは一面識もない。しかし長年行き別れた兄弟に再会した様な、嬉しさの様な悲しさの様な、得体の知れないものがこみ上げてくるのをどうする事も出来なかった。
Cという男も住所不明だった。誰かが彼の兄が鎌倉にいると教えてくれた。何とCは既に死亡していた。どんな病気だったんですか、と聞くと、俄かに相手の言葉が揺れた。余り人に言いたくない病気かと思い、追求する事はしなかった。
彼と仲がよかったという級友に電話した時だ。それはまずかったな、Cは自殺したんだ、と言われて私は悔やんだ。
Dは受験に失敗し、新制大学にも行かず、郷里の若狭で新制中学の代用教員になったと聞いていた。旧制高校卒だけでは中途半端な学歴で今なら大学中退の扱いであった。
地方の学芸大学卒の若いのに追い越され、いわゆる窓際族であったらしい。電話に出た彼は如何にもそれらしくぼそぼそと応対した。その後、登用試験を受けて教頭にはなったと聞いたが死亡した。
(川野蓼艸氏寄稿)
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