旧制高校 第1回
昭和四十七年、もう何年前の事であろう。金沢の旧制高校の同窓会から卒業生の名簿を作る、ついてはお前の学年の理科乙類の動静を調べろ、という達示が届いた。
若い人には、旧制と言っても理科乙類と言ってもお分かりにはなるまい。戦前から戦後しばらくにかけての教育制度は小学校は六年、中学は五年、高等学校は三年、大学は三年、医学部だけは四年、合計十七年、医学部十八年であった。
現在の新制度では小学校六年、中学三年、高校三年、大学は教養課程二年、専門課程二年、合計十六年、医学部だけは専門課程四年であるから合計十八年。つまり医学部だけは旧制、新制とも十八年で変わりはないが、他の学部では十七年から十六年と就学期間が一年短縮された。
従って昭和二十八年には旧制と新制とが同時に卒業する事になった。就職するに当って一年長く勉強した者を優遇し、旧制卒業者の初任給をどこの企業でも高くした。
医学部のみ旧制新制とも就学期間は十八年であったから、こういうダブり現象は起こらず、我々は旧制最後、一年下から新制大学とはっきりしていた。
旧制高校では入学すると生徒は文科と理科に分けられた。
そしてそれぞれが甲類と乙類に分かれた。文科は第一外国語を英語にすれば甲類、ドイツ語にすれば乙類であったが、理科の方は大学の理学部、工学部をめざす者は甲類で、第一外国語は英語であり、医学部、農学部をめざす者は乙類で第一外国語はドイツ語と決められていた。
まあ、旧制高校は現在の大学の教養課程に相当していたと言えよう。現在の高校は公立および私立であるが、旧制高校は国立と私立であった。殆どは国立で私立は成城、成蹊、武蔵、甲南等少数であった。旧制高校の教師は教授と呼ばれた。
我々がドイツ語を習った西教授は東大独文学科教授となって転任された。
一高東大という。一高、つまり第一高等学校という旧制高校はどこにあったか。井の頭線に東大前という駅がある。あの駅の北に聳える塔のある建物が当時の一高である。現在は東大教養学部になっている。
ついでに言えば二高は仙台、三高は京都、四高は金沢、五高は熊本、六高は岡山、七高は鹿児島、八高は名古屋、ここまでをナンバースクールといった。
ついで松本、新潟、水戸に出来ていったが、そこからは番号はつけられず、ネームスクールといった。各県に一校はなかった。北から言えばネームスクールは弘前、山形、新潟、富山、松本、水戸、浦和、静岡、西日本にに入って大阪、松江、山口、四国に松山、高知、九州に福岡、佐賀等にあった。
その他、東京には都立高校、国立の東京高校、大阪には府立浪速高校があり、台北には台北高校があった。北大の予科も旧制高校に数えられ、旧京城帝大予科、台北帝大予科も旧制高校とされた。今では中国に返還されたが、日本の租借地だった遼東半島には旅順高校があった。
私立大学の医学部は予科が三年、学部が四年、予科と学部は一体であった。つまり官立、今の国立大学は私立大学の予科に相当するものが、旧制高校として全国に散らばって存在していた様なものであった。
旧制高校を卒業すれば大体全国の国立大学のどこかに入学する事が出来た。大都市にあった旧帝国大学、千葉、新潟、岡山、熊本、長崎、金沢の六つの単科医科大学、東京工大、東京商大(現・一ツ橋)、神戸商大等々であった。
旧制高校卒業生と国立大学募集人員はほぼイコールだったから、六つの地方医科大学は大抵無試験で入れた。成城文科から岡山医大を受けた我が医師会の耳鼻科の故・野村先生は、事務官が試験場に入ってくれと言うと
「俺たちは無試験だっていうから入学手続きに来たんだ。それを試験するってえのはおかしんじゃねえか。」
と浅草育ちの東京弁で毒づいた。事務官は
「そりゃそうですけえど、一応、試験はする事になっておりますんじゃ。まあ、そねんごねんと中に入って名前だけでようござんすから、ちょと書いてやってつかあさらんか。」
と岡山弁で答えたという。現在ではとうてい信じがたい話である。
戦時中、軍部の技術者、医師の必要から大学の理工系募集は増加していた。東大に第二工学部というのすらあった。
戦後、その必要性はなくなり、大幅に文部省は募集人員を減らした。ところが旧制高校の募集は片手落ちで戦前のままであったから、旧制どんじりの我々にはどうしてもあぶれる者が出るのは必然であった。
(川野蓼艸氏寄稿)
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/100535/9581134
この記事へのトラックバック一覧です: 旧制高校 第1回:





コメント
うへー、ややこしい。私も84歳になる岐高女《岐阜高等女学校》出の母に時々学校制度について聞く事がありますが、ややこしい。
しかし、聞いて書き留めたりするのですが散逸。書き残しておくこと必要ですね。また、あとで。
投稿 barazusi | 2006年4月16日 (日) 09:53
江戸っこ言葉と、岡山弁のやりとりがおもしろいですねー。ござんすは江戸弁だと聞いたことが、遊女の言葉?
岡山弁て、「坊ちゃん」の松山弁みたいに感じます、方言を知らないから。
片手落ちって今、差別用語て聞いたことがあります。もしそうなら別の言葉を探すの大変かも。
投稿 barazusi | 2006年4月16日 (日) 11:30
最近は本当にいろいろ言われますね。「看護婦」はいけないとか……。
なんだか言葉が生贄にされている感じさえします。
でも、本当はその言葉を使う人が差別する意識があるのかどうかということですよね。もちろん、蓼艸さんには片腕の人を差別する気持ちはありません。
以前、ある人が歌舞伎を見に行った際、セリフで「うちにもメクラがおる」と言うべきところを役者が「うちにも目の不自由な者がおる」と言っていて、非常にびっくりしたそうです。伝統文化でさえ、そういう状況なのですね。
投稿 Keiten | 2006年4月19日 (水) 01:41
我々は診断書を書くのに、眼の見えない人、耳の聞こえない人、口のきけない人でない事を証明す、と二重否定で診断書を書きます。
しかし人に人を侮蔑する気持があれば、どんな言葉でも差別用語になります。やーい、眼の見えない人、と言って視覚障害者をからかえば、「眼の見えない人」は立派な差別用語です。我々はどんな時にも人を侮蔑する気持を持ってはなりません。全ての人を愛する、全ての人を尊重する気持を持てば世の中から差別用語は消える筈です。
投稿 川野蓼艸 | 2006年4月19日 (水) 22:15
蓼艸さんが以前話してくれた、「俺達の医学部入学の年には、金沢大学には『士族』『平民』の別を記入する欄があったが、岡山大学にはそんなものはなかった!」といっていた自慢話がかわいくって大好きです!
投稿 志治美世子 | 2006年4月20日 (木) 12:53
蓼艸さん、PCされるんですか?
志治さん、こんばんは!
投稿 barazusi | 2006年4月21日 (金) 19:22