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2006年8月23日 (水)

歌仙『華麗なる墓原』の巻

               捌・葛城 真史

     たなびきて雲の形や蛇の衣        大橋 俊彦
       正覚坊の後を追ひゆく            小池 舞
      三人も四人五人も埒もなし           穴澤 とこ
       こんぺいとうをサラダボールに       柴  小夏
      月今宵ピエロの眼鏡レンズ無く        高岡 粗濫
       コロラトゥーラを爽やかに聴く         坂根 慶子
     啄木鳥のリズム確かに地方色         葛城 真史
       風を起こしてすれちがふひと            とこ
      トリニダード・トバゴのエース・ストライカー     真史
       綿密な計算蹴飛ばして逢ふ             小夏
      元カレと今のカレとの互換性              慶子
       社名を見つつ乗るエレベータ            とこ
      満月をゆがめて映す寒の水               俊彦
       介党鱈の口のつつぱり                とこ
      出囃子のこれが文楽これ志ん生           舞
       愛馬のごとく単車洗いつ               粗濫
      咲く花の途方に暮るるほど枝垂れ          とこ
       子は凧揚げをしに海へ行く             小夏
ナオ     都庁ビル防塵ネットに春眠し              粗濫
       君の乳首を突つついてみる             舞
       モナミとは五色の酒を飲んだ仲            慶子
       まぐれ当たりの億万の富               俊彦
       華麗なる墓原何が棲みゐるか             とこ
       泳ぎ疲れて鯉幟痩せ                  俊彦
      くびれたる空瓶浮かべ夏の沼             粗濫
       記憶はいつも雨にはじまる              とこ
      この石はもの言いたげな窪がある           舞
        神も時には悪を讃へる                粗濫
      千年の孤独にかかる月の橋               小夏
        腕に後れ蚊とまらせてゐる              小夏
ナウ     目裏を離れぬままに初紅葉              俊彦
        ヴァージンロード父として踏む            俊彦
      銀の匙中の未来は逆さなり               慶子
        連衆は皆考へる葦                   粗濫
      花筏割つて子鴨の連なりて               小夏
        木炭で描く蝶の遊びぬ                 真史

          (平成十八年六月十七日首尾 於・東京文化会館)

カメラワークということ

 この歌仙『華麗なる墓原』の進行中、ナウ二句目の、

  ヴァージンロード父として踏む

 という句について、ちょっとした議論がありました。慶子さんが言うには、これは恋句ではないか、ナウで恋句はいかがなものか、ということでした。
 僕はこれは花嫁の父の感慨を詠んだもので、恋句ではありえないと主張し、春眠子さんの賛同も得たのですが、結婚式の句である以上、恋句である、というのが慶子さんの主張でした。
 結局は、もしこれが恋句であったとしても、ナウに恋句があるというのは別に禁忌ではない、ということで、当の句自体が恋句であるかどうかということは曖昧なまま歌仙を巻き上げました。
 慶子さんの主張が間違っているというつもりは毛頭ありませんが、今一度ここで僕の主張を述べておきたいと思います。
 僕は以前から俳句は「一枚絵」であり、連句はその集合体、つまり「映画」であると思っています。
 「映画」だと思っているので、連句を巻く際、僕はつねに「カメラワーク」というものを意識しています。「カメラワークが上手くいってると、連句が面白くなる」というのが僕の持論です。
 例えば、同じものを同じような視点で撮ってしまっているのはカメラワークが上手くいっていない例であり、これがいわゆる「ベタ付け」です。そうではなくて、次々に視点が切り替わる、時には観客の予想を裏切ってまったく別のものが映るような、「世界の広がりを感じさせる」付け句が、「カメラワークの上手くいってる」句なのです。
 冒頭に挙げた句を付けた時も、僕は「カメラワーク」を考えていました。つまり、慶子さんと僕の主張の違いは、カメラワークのとらえ方の違いと言えるのです。
 慶子さんの場合、カメラのフレームには花嫁の父だけでなく、花嫁も花婿も、ウェディング・ケーキも……結婚式というもの全体が映っている。そう解釈した上で、慶子さんは恋句であると言ったのだと思います。
 それに対して、僕はこの場合、花嫁の父にスポットライトを当て、アップで映し、その内面の感慨に迫っている、と解釈したのです。この場合は恋句ではないのです。
 先ほども申しました通り、僕は慶子さんと僕のどちらが正しいのかということをここで言うつもりはありません。
 というよりは、言えるはずもない、というのが僕のスタンスです。なぜなら、連句も芸術のひとつである限り、僕たち連衆は「割り符の片方」を提示することしかできないからです。
 「割り符のもう片方」は常に作品の読み手であるみなさんが持っているのです。

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