第三~虚構への入口~
発句から数えて3句目の長句(5・7・5)を「第三」といいます。第三には季語を入れる場合と入れない場合があります。たとえば発句が<春>もしくは<秋>の場合、<春><秋>は「3句以上5句まで続ける」というルールがありますので、必然的に発句が<春>なら<春>、<秋>なら<秋>、ということになります。発句が<夏>、<冬>の場合、<夏><冬>は「1句以上3句まで続ける」というルールになっていますが、これらの季節はほとんどの場合2句まででやめるので、大抵は<雑>になります。もちろん、<夏>、<冬>になることも皆無ではありません。
第三のもう1つのルールとして、句末を「に」「て」「にて」「もなし」「らん」のいずれかで止めるというものがあります。これは連句を「虚構の世界」に持ってゆくため、などといわれていますが、むつかしいことはともかく、とりあえずは「そういうことになってる」と思っていただければ結構です。
「虚構の世界」という言葉が出てきましたが、第三は「虚構の世界の入口」であるということが最大のポイントなのです。発句では当日のその場その時、または挨拶などを詠みました。脇ではその発句にベタ付けに付けました。そして第三から「虚構の世界」へと入ってゆくのです。それは、発句、脇とは全く違う世界観の句を詠むことに他なりません。「全く違う世界観の句を詠む」ということを連句では「転じ」といいます。この「転じ」を繰り返して進んでゆくのが、連句なのです。
「打越」の障り
連句では直前の句を「前句」、さらにその前の句を「打越」といいます。連句ではこの「打越」と同じイメージ、同じ世界観になることを嫌います。ところが、連句をしていると連衆の中からそのような句が出てくることも、多々あります。そのような句は「打越に障っている」、「打越している」といって、捌きはそれを採用しないことになっています。
では、どのような句が打越に障るのでしょうか。以下、実例を見てみましょう。
鈴虫や故郷の風に撫でらるる
空に磨きぬ真円の月
松虫の値札こっそり貼り替えて
これは、「鈴虫」と「松虫」が同じ「秋の虫」です。連句では打越と付け句で同じようなものが出てきてはいけないのです。
鈴虫や故郷の風に撫でらるる
空に磨きぬ真円の月
望郷の歌を雲間に届かせて
この場合は、発句が故郷を懐かしむような句であるのに対し、第三も「望郷」が詠まれていて、同じようなイメージとなってます。このように、前句を挟んで打越と付句のイメージが同じになってしまうことを「観音開き」といって、これも典型的な打越の障りです。
鈴虫や故郷の風に撫でらるる
空に磨きぬ真円の月
デパートの撫子までを散歩して
これは打越のイメージとは重なるものはありませんが、同じ「撫」の字が入ってしまっています。これを「同字」の打越、といいます。
鈴虫や故郷の風に撫でらるる
空に磨きぬ真円の月
コスモスの色が水面に輝きて
これは一見すると、打越とイメージが重なっていませんし、同字も出てきていません。しかし、これは打越に障っているのです。どうしてかというと、打越が「場」の句であるのに対して、付け句も「場」の句になっています。つまり、これは「場」の打越です。これと同様に、人情句も「自」同士、「他」同士、「自他半」同士が打越になってはイケナイのです。付け句をする場合は、自他場も気にするようにしましょう。
打越の障りは、おおざっぱにいえばこんなものです。あとはこれから付け句を進めていく流れの中でその都度、説明していきます。
さて、では『歌仙「猿の横顔」の巻』では実際にどのように付けたかというと……
鈴虫や故郷の風に撫でらるる
空に磨きぬ真円の月
柚子風呂は入浴剤と噂して
「場」の句の打越にならないように、人情を入れました。「噂して」なので、人がいるという理屈です。季節は「柚子」で<晩秋>……のつもりだったのですが、後日、あらためて『季寄せ』を引いたところ、「柚湯」「柚風呂」は<仲冬>でした。これは失敗。まあ、「入浴剤」なので、<晩秋>でも良いということで……。
失敗といえば、僕はあまり詳しくないのですが、芭蕉もかなり失敗をしているそうです。だからといって、芭蕉の評価が変わるわけではありませんね。ですから、失敗などはあまり気にせず、のびのびと、自分や仲間たちが楽しめれば良いのです。
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