杉田久女の事1
俳句はやらなくても、高浜虚子の名前は医師会の先生方もご存知であろう。また田辺聖子の「花衣脱げばまつわる」という小説なぞによって、杉田久女という女流俳人のいた事もご存知の方はご存知であろう。
久女は昭和二十一年一月に死去した、今や伝説的な俳人で毀誉褒貶、誤解、曲解の中に生き、そして死んだ人である。
最近昭和五十八年初版発行の石昌子著「杉田久女」を必要あって読み返した。昌子氏は久女の長女で現在まだ百歳未満でご健在と角川書店に聞いて確かめている。本書は長女の石昌子氏が母の名誉回復のため、渾身を込めて書かれた本だ。
長女として親の欠点は欠点として認め、日本中に流布している久女の誤伝を何とか正そうとしている態度は、私には感慨なしには読めなかった。
久女は大正九年に高浜虚子に師事して以来、その才能を愛され遂には同人となり、常に女流のトップクラスにランクされていたのに昭和十一年突如除名処分となる。
彼女は昭和二十年十月、つまり終戦直後、本人の意思ではないのに九大の出先病院である筑紫保養院という精神科に強制入院、三ヵ月後、誰にも看取られる事なく死去する。
最後の十年間は彼女にとり最高に不幸であった。彼女さえその気になれば迎えてくれる結社は幾らでもあったのに、自分の師は虚子しかいないと、律儀にそれを拒否した。
久女は生前に句集を出す事を念願としていたが、ホトトギス除名と戦争を間にはさんでいた事もあって、遂にそれを果たす事なく死去した。
石昌子氏は母の遺志を継ぎ、昭和二十六年、遂に句集を角川より出す。母は序文をぜひ虚子先生にと言い残していた。しかし除名の事もあり、簡単にはいかなかった。当時、石昌子氏は鎌倉に住み川端康成氏と知己であった。
川端氏は、よろしい、私から頼んで上げましょう、と言われ、結局、虚子は序文執筆を引き受ける。後述するが、それはいささか嫌味に満ちたものであった。
虚子も除名以来十年以上経過して久女に対して嫌悪感も薄らいだのか、久女に関する文章を書く様にはなっていた。
しかし昭和二十一年、死後十ヶ月、十一月にホトトギスに書かれた「墓に詣りたいと思っている」という文章はひどい。石昌子氏の本の丸写しであるが、次の様な場面が出てくる。
「昭和十一年二月二十二日、フランスに旅行するとき船が門司に係留しているときのことであった。(その日は虚子の誕生日にあたり、船に立派な鯛が船内に届けられる。虚子はそれを久女の心づくしと思う。出航に際しデッキに立つと)虚子渡仏云々という旗を立てた一艘の舟が船尾に現れた。其舟には女の人が満載されておって、其先頭に立っているのが久女さんであった。(女たちはハンケチを振り、久女は先頭に立ち千切れよとばかり手を振っていた。)甲板に出ていた客は皆異様な目をして其舟を見、又視線を私の方に向けていた。
(中略)其舟はもういい加減に離れてくれればと思っているのにいつ迄もついて来た。私は初めの間は手を上げて答礼していたが其気違いじみている行動に聊か興がさめて来たので其まま船室に引っ込んだ。」
虚子によれば船は帰りも門司に寄航した事になっている。彼が上陸している間に久女が虚子を訪ねて来たという。
「久女は機関長の上畑楠窓氏に面会して、何故に私に逢わせてくれぬのか、と言って泣き叫んで手のつけられぬ様子であったという。(久女は色紙を書いて虚子に託す。)其は乱暴な字で書きなぐってあって一字も読めなかった。」
石昌子氏は当時の母は奇矯な振舞があったとはいえ、そんなはずはない、そこまではやってはいない、という気持があって長年納得のいかない重苦しい年月を過したと記す。
(川野蓼艸氏寄稿)
今回から全3回でお送りするエッセイ『杉田久女の事』は、川野蓼艸さんが医師会ニュースに向けて書かれたものだそうです。あと2回分も、ぜひお楽しみに。
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