2006年11月18日 (土)

杉田久女の事1

 俳句はやらなくても、高浜虚子の名前は医師会の先生方もご存知であろう。また田辺聖子の「花衣脱げばまつわる」という小説なぞによって、杉田久女という女流俳人のいた事もご存知の方はご存知であろう。

 久女は昭和二十一年一月に死去した、今や伝説的な俳人で毀誉褒貶、誤解、曲解の中に生き、そして死んだ人である。

 最近昭和五十八年初版発行の石昌子著「杉田久女」を必要あって読み返した。昌子氏は久女の長女で現在まだ百歳未満でご健在と角川書店に聞いて確かめている。本書は長女の石昌子氏が母の名誉回復のため、渾身を込めて書かれた本だ。

 長女として親の欠点は欠点として認め、日本中に流布している久女の誤伝を何とか正そうとしている態度は、私には感慨なしには読めなかった。

 久女は大正九年に高浜虚子に師事して以来、その才能を愛され遂には同人となり、常に女流のトップクラスにランクされていたのに昭和十一年突如除名処分となる。

 彼女は昭和二十年十月、つまり終戦直後、本人の意思ではないのに九大の出先病院である筑紫保養院という精神科に強制入院、三ヵ月後、誰にも看取られる事なく死去する。

 最後の十年間は彼女にとり最高に不幸であった。彼女さえその気になれば迎えてくれる結社は幾らでもあったのに、自分の師は虚子しかいないと、律儀にそれを拒否した。

 久女は生前に句集を出す事を念願としていたが、ホトトギス除名と戦争を間にはさんでいた事もあって、遂にそれを果たす事なく死去した。

 石昌子氏は母の遺志を継ぎ、昭和二十六年、遂に句集を角川より出す。母は序文をぜひ虚子先生にと言い残していた。しかし除名の事もあり、簡単にはいかなかった。当時、石昌子氏は鎌倉に住み川端康成氏と知己であった。

 川端氏は、よろしい、私から頼んで上げましょう、と言われ、結局、虚子は序文執筆を引き受ける。後述するが、それはいささか嫌味に満ちたものであった。

 虚子も除名以来十年以上経過して久女に対して嫌悪感も薄らいだのか、久女に関する文章を書く様にはなっていた。

 しかし昭和二十一年、死後十ヶ月、十一月にホトトギスに書かれた「墓に詣りたいと思っている」という文章はひどい。石昌子氏の本の丸写しであるが、次の様な場面が出てくる。

 「昭和十一年二月二十二日、フランスに旅行するとき船が門司に係留しているときのことであった。(その日は虚子の誕生日にあたり、船に立派な鯛が船内に届けられる。虚子はそれを久女の心づくしと思う。出航に際しデッキに立つと)虚子渡仏云々という旗を立てた一艘の舟が船尾に現れた。其舟には女の人が満載されておって、其先頭に立っているのが久女さんであった。(女たちはハンケチを振り、久女は先頭に立ち千切れよとばかり手を振っていた。)甲板に出ていた客は皆異様な目をして其舟を見、又視線を私の方に向けていた。

(中略)其舟はもういい加減に離れてくれればと思っているのにいつ迄もついて来た。私は初めの間は手を上げて答礼していたが其気違いじみている行動に聊か興がさめて来たので其まま船室に引っ込んだ。」

 虚子によれば船は帰りも門司に寄航した事になっている。彼が上陸している間に久女が虚子を訪ねて来たという。

 「久女は機関長の上畑楠窓氏に面会して、何故に私に逢わせてくれぬのか、と言って泣き叫んで手のつけられぬ様子であったという。(久女は色紙を書いて虚子に託す。)其は乱暴な字で書きなぐってあって一字も読めなかった。」

 石昌子氏は当時の母は奇矯な振舞があったとはいえ、そんなはずはない、そこまではやってはいない、という気持があって長年納得のいかない重苦しい年月を過したと記す。


               (川野蓼艸氏寄稿)

 今回から全3回でお送りするエッセイ『杉田久女の事』は、川野蓼艸さんが医師会ニュースに向けて書かれたものだそうです。あと2回分も、ぜひお楽しみに。

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2006年4月28日 (金)

旧制高校 第3回

 大阪大学、名古屋大学は旧帝大だったが、医・理・工の理科系しかなかった。戦後、法学部、経済学部が新設された。   
 しかし医学部を目指していた者が、急に新設の阪大、名大の法科や経済にはいけない、という気持もあって人気はなかった。しかしどこへも行かないよりはというので、やむなく入学する者もいた。無試験であった。
 これらも今や大変入りにくい学部だと聞いているが、当時の実情はこんなものだった。同大学の同学部関係の方には誠に申し訳のない言い方で、お詫びするしかない。
 Eはこのやむを得ずの口だった。日立の本社の出世頭で当時既に部長代理であった。電話すると秘書が出て、私がどういう人間か分らぬのでしきりに探りを入れる。
 私は医者だ、怪しい者ではない、でやっと彼は出た。
 「はいはい。Eで御座います。川野さん。ほう、思い出しませんなあ。金沢でですか。」
 「何言ってんだ。寮でお前が南寮四号、俺はその上の五号で、俺が夜中に雪の中へ窓からションベンすると、お前も下でちょうどやっていて、お前がチキショウと言ったではないか。俺だってば。川野だってば。ユスリやタカリじゃないんだってば。」
 これが十分ばかり続いて、やっと、何だ、お前か、となった。
 この時の、はいはい、Eで御座います、という言い方は如何にも今全日立を背負って自分は頑張っているのだ、という自信に満ち溢れていた。Dのぼそぼそとは格段の差であった。私は電話一本の最初の瞬間で、その人の過去一切が浮かびあがる様な気がした。
 Fは全くと言っていいほど手がかりがなかった。唯一、ある者が東大受験の時、吉祥寺のプラットフォームで会って少し話をした事がある、という情報だけだった。
 これだけではどうにもならない。諦めるしかないと思っていたのだが、これもある夜、ひょっとするとと思って、三多摩の電話番号簿を見てみると、武蔵野市吉祥寺に同姓同名の人が出ているではないか。
 これが私の探しているFかどうか。殆ど違うとしか思えなかった。夜の十時だったが電話してみると夫人が出て来て、確かにFですが、貴方様の探している人と私の夫が同一人物かどうか分りません。金沢の学校ですか。どうでしょう。聞いた事はありません、という返事であった。
 私はやはり人違いだと思った。もしそうなら直ぐに向こうから電話が返って来そうなものだが、なかった。
 しかし一週間後、手紙が来た。確かに私は貴方が探していらっしゃるFです。私は当時金もなく、進学も失敗し挫折した人間です。金沢の事も含めて過去の事は一切家内には伝えていません。貴方のお役に立つ事がたった一つあります。   
 それはクラスの卒業写真の裏に、どれが誰だか全部名前が記入してあります。名前と顔が一致せず、お困りだと家内から聞きましたが、これをご覧になれば私のクラスは一目瞭然です、という文面であった。
 彼の仕事は夜だ、と夫人が言っていたので警備員の仕事かも知れない。私は充分な謝意を表して写真を送り返した。
 Gは東京教育大学(現・筑波大学)に行った事は分っていたが、大学本部に聞いても住所は不明であった。
 百二十名のうち彼を残すのみであった。あちこち照会をしているうちに、彼の本籍は滋賀県の田舎だと言ったのがいた。私は滋賀県の大津、彦根以外の自治体全部に当たっていくうちに、ついに小さな町に彼の本籍があるのを突き止めた。
 そこから先の手続きはもう何人もこなしていたので訳はなかった。電話に出た彼は勤めていた高校をやめ、家内の実家の事業を手伝っている、と言った。私は大学に連絡しろ、行方不明者になっているぞ、と言った。
 私はついに家から一歩も出る事なく百二十名を探し当てる事が出来た。梅の咲く頃から始め、翌年若葉の頃になっていた。そして昔見たフランス映画「舞踏会の手帳」を思い出した。未亡人となった美人女優が、昔の恋人を尋ね歩く映画であった。自殺したり、彼女に失恋して神父になっていたり、やくざ、町長、堕胎医になっていたりした。
 私は集合写真の全員の名前と、住所を小冊子にして皆に配った。礼状の中に若山牧水の「かたわらに秋草の花語るらし亡びしものは美しきかな」を書いてきたのがいた。
 我々自身が美しいと言うのではない。我々が死に絶えれば旧制の教育を受けた者は完全に地上からいなくなるのだ。
 日の当った者、妻にも過去を語る事のなかった、日の全く当らなかった者、私は光と影を見る思いであった。
 影の者、それは自らの罪ではない。教育改革の狭間にあって、翻弄された水泡なのであった。

               (川野蓼艸氏寄稿)

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2006年4月22日 (土)

旧制高校 第2回

 私は京大医学部を失敗し岡山に拾って貰った。世が世ならこんな田舎大学に来るんじゃないのに、と思ったが、それは飛んでもない思い上がりであった。岡山に入れなかったら私はとても医師になってはいなかった。
 父は旧安田銀行、のちの富士銀行勤務で、父の収入や転任の事を考えると、とても私立医大に行く金を父に出させる勇気はなかった。かと言って新制大学に行くのは一種の落第であり、新制になってからの皆さんには大変失礼な言い方で申し訳ないが、プライドが許さなかった。
 私たちの授業料は確か一年で三千六百円だったと思う。インターンで慶応の人たちと一緒になり、それが二万円だと聞いて私は驚いた。当時、私は万単位の金は見た事もなければ触った事もなかった。
 金沢の旧制高校同窓会本部から昭和二十四年理乙卒業者の名簿作りを命じられた時、正直言って迷惑であった。先輩たちは皆年配者であり、殆どが旧帝国大学卒業であった。
 私は彼らの体臭の様なもの、特にエリート意識が嫌いであった。この時も少し身の廻りを調べて、それでお茶を濁す積りでいた。
 本部から昭和二十四年理乙全卒業者の名前を列記し、少数の住所判明者だけ印刷した用紙が送られてきた。
 理乙は三クラスあり、全部で百二十名であった。卒業時の集合写真三枚は何とか集った。しかし卒後二十三年という歳月は意外にも個々の間を砂の様に埋め尽くしていた。古代の遺跡を発掘するのにも似た困難が待ち受けていた。Pの事を知ろうと思えばQを調べねばならず、Qを探すためには又誰かを追及しなければならなかった。私は推理小説を読む様な面白さに次第にはまっていった。
 連日、北海道から九州まで電話をかけまくり、それぞれの消息を確かめ、不明者の住所を探し出そうと努めた。
 驚いた事に多くの者は自分が何組に属していたかを覚えてはいず、受持の教授の記憶も定かでなく、卒業時のそのクラスの集合写真のコピーを送っても、自分以外の友人の名前と顔が分らず、果たしてあの三年間の生活は実在したのであろうかとすら思えた。
 私は常に調査方法を考えた。昔、私と妻が結婚の挨拶廻りをしていた時、新宿の地下道でAに会った事を思い出した。その時の名刺には確か最高裁図書館勤務と書いてあった。
 翌朝、早速最高裁に電話した。図書館のA、ああ、富山県の人ですね、と言われたのには驚いた。人事の事はこれだけで分るのか、さすが最高裁だと妙なところで感心した。
 彼を知った事は大きかった。官庁関係の事は大抵彼で間に合ってしまうのだった。Bも何の手がかりもなかったが、誰かが彼の父親は陸軍中将で南方で戦死したはずだと言った。
 これもAが厚生省にあたり、B中将の本籍は福井市と分った。福井市は既に東京板橋区に転籍と伝えてきた。
 板橋区は、それは何々出張所の管轄だと言い、何々出張所では現住所が知りたければ付票交付願いを出せ、と言った。それによってやっとBの住所が判明した。電話番号を調べ、三ヶ月かかってやっと彼の声を聞く事が出来た。戦時中に出来た信州医大を出て開業していた。
 彼とは一面識もない。しかし長年行き別れた兄弟に再会した様な、嬉しさの様な悲しさの様な、得体の知れないものがこみ上げてくるのをどうする事も出来なかった。
 Cという男も住所不明だった。誰かが彼の兄が鎌倉にいると教えてくれた。何とCは既に死亡していた。どんな病気だったんですか、と聞くと、俄かに相手の言葉が揺れた。余り人に言いたくない病気かと思い、追求する事はしなかった。
 彼と仲がよかったという級友に電話した時だ。それはまずかったな、Cは自殺したんだ、と言われて私は悔やんだ。
 Dは受験に失敗し、新制大学にも行かず、郷里の若狭で新制中学の代用教員になったと聞いていた。旧制高校卒だけでは中途半端な学歴で今なら大学中退の扱いであった。
 地方の学芸大学卒の若いのに追い越され、いわゆる窓際族であったらしい。電話に出た彼は如何にもそれらしくぼそぼそと応対した。その後、登用試験を受けて教頭にはなったと聞いたが死亡した。

               (川野蓼艸氏寄稿)

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2006年4月14日 (金)

旧制高校 第1回

 昭和四十七年、もう何年前の事であろう。金沢の旧制高校の同窓会から卒業生の名簿を作る、ついてはお前の学年の理科乙類の動静を調べろ、という達示が届いた。
 若い人には、旧制と言っても理科乙類と言ってもお分かりにはなるまい。戦前から戦後しばらくにかけての教育制度は小学校は六年、中学は五年、高等学校は三年、大学は三年、医学部だけは四年、合計十七年、医学部十八年であった。
 現在の新制度では小学校六年、中学三年、高校三年、大学は教養課程二年、専門課程二年、合計十六年、医学部だけは専門課程四年であるから合計十八年。つまり医学部だけは旧制、新制とも十八年で変わりはないが、他の学部では十七年から十六年と就学期間が一年短縮された。
従って昭和二十八年には旧制と新制とが同時に卒業する事になった。就職するに当って一年長く勉強した者を優遇し、旧制卒業者の初任給をどこの企業でも高くした。
 医学部のみ旧制新制とも就学期間は十八年であったから、こういうダブり現象は起こらず、我々は旧制最後、一年下から新制大学とはっきりしていた。
 旧制高校では入学すると生徒は文科と理科に分けられた。
 そしてそれぞれが甲類と乙類に分かれた。文科は第一外国語を英語にすれば甲類、ドイツ語にすれば乙類であったが、理科の方は大学の理学部、工学部をめざす者は甲類で、第一外国語は英語であり、医学部、農学部をめざす者は乙類で第一外国語はドイツ語と決められていた。
 まあ、旧制高校は現在の大学の教養課程に相当していたと言えよう。現在の高校は公立および私立であるが、旧制高校は国立と私立であった。殆どは国立で私立は成城、成蹊、武蔵、甲南等少数であった。旧制高校の教師は教授と呼ばれた。
 我々がドイツ語を習った西教授は東大独文学科教授となって転任された。
 一高東大という。一高、つまり第一高等学校という旧制高校はどこにあったか。井の頭線に東大前という駅がある。あの駅の北に聳える塔のある建物が当時の一高である。現在は東大教養学部になっている。
 ついでに言えば二高は仙台、三高は京都、四高は金沢、五高は熊本、六高は岡山、七高は鹿児島、八高は名古屋、ここまでをナンバースクールといった。
 ついで松本、新潟、水戸に出来ていったが、そこからは番号はつけられず、ネームスクールといった。各県に一校はなかった。北から言えばネームスクールは弘前、山形、新潟、富山、松本、水戸、浦和、静岡、西日本にに入って大阪、松江、山口、四国に松山、高知、九州に福岡、佐賀等にあった。
 その他、東京には都立高校、国立の東京高校、大阪には府立浪速高校があり、台北には台北高校があった。北大の予科も旧制高校に数えられ、旧京城帝大予科、台北帝大予科も旧制高校とされた。今では中国に返還されたが、日本の租借地だった遼東半島には旅順高校があった。
 私立大学の医学部は予科が三年、学部が四年、予科と学部は一体であった。つまり官立、今の国立大学は私立大学の予科に相当するものが、旧制高校として全国に散らばって存在していた様なものであった。
 旧制高校を卒業すれば大体全国の国立大学のどこかに入学する事が出来た。大都市にあった旧帝国大学、千葉、新潟、岡山、熊本、長崎、金沢の六つの単科医科大学、東京工大、東京商大(現・一ツ橋)、神戸商大等々であった。
 旧制高校卒業生と国立大学募集人員はほぼイコールだったから、六つの地方医科大学は大抵無試験で入れた。成城文科から岡山医大を受けた我が医師会の耳鼻科の故・野村先生は、事務官が試験場に入ってくれと言うと
 「俺たちは無試験だっていうから入学手続きに来たんだ。それを試験するってえのはおかしんじゃねえか。」
と浅草育ちの東京弁で毒づいた。事務官は
 「そりゃそうですけえど、一応、試験はする事になっておりますんじゃ。まあ、そねんごねんと中に入って名前だけでようござんすから、ちょと書いてやってつかあさらんか。」
と岡山弁で答えたという。現在ではとうてい信じがたい話である。
 戦時中、軍部の技術者、医師の必要から大学の理工系募集は増加していた。東大に第二工学部というのすらあった。
 戦後、その必要性はなくなり、大幅に文部省は募集人員を減らした。ところが旧制高校の募集は片手落ちで戦前のままであったから、旧制どんじりの我々にはどうしてもあぶれる者が出るのは必然であった。

                (川野蓼艸氏寄稿)

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2006年3月12日 (日)

我が卒後五十年録 第3回

 当日が日曜日であったのに、火曜日にはマリちゃんから歌集が届いた。本は六百部作り全部人に送ったので手元にはないと言い、歌集全体をコピーしてあった。歌集名は熱情ソナタであり、アパッショナータとルビが振ってあった。

 私は一気に通読し驚いた。如何にも若い女性らしい初々しい清新な歌集であった。総合短歌雑誌には現代の一流歌人と言われる人達の短歌が載っているが、中には馬鹿々々しいのが混じるのに、これは見事な短歌群であった。私はすぐに電話して取りあえず称賛の言葉を述べた。順次読んでゆく。

   旧約の系譜のごとく我もまた子を産みて死ぬたったそれだけ

 旧約聖書を読むと誰それが誰それを産み、誰それが誰それを産み、というのが延々と続く。自分もその一員の様なもので、ただ子供を生み、死ぬだけだという感慨である。これは我々男にも通用する感慨である。

   発眼せしころに絶ちたるわが胎児風強き日に耳もとに来る

 他に四回孕み二児を得た、という歌もあるので、何らかの理由で中絶せざるを得なかったのであろう。女として悲痛な思いであったろう。拙宅でも経験があるが、その夜は夫婦で暗然とした気持で過ごしたものである。発眼せしころ、という表現が壮絶である。

   ボタン一つで鉄扉は閉まりああ汝の三十七年焼かれてしまふ

   引き出されし骨の白さに立ち竦むぬくき台車を子らと囲みて

   一心に連弾をする姉妹あり教則本は姉がめくりて

   妹の白衣は処分したのかと寡黙な母に今日も問へざり

   稲の花かすかな風に揺れやまず胎ひらかれず逝きしいもうと

 三十七歳で結婚もする事なく逝った妹に対する挽歌の、何と痛切な事であろう。一言も悲しいとか、辛いとか言ってはいないのに大きな悲しみが誰の胸にも伝わろう。

   もう妹に関する諍ひのなくなりて父母はしづかに向かひて食す

   一年祭のをはるころには時雨きて父母は泣かずに座りてゐたり

 友人夫婦も辛かったであろう。互いに娘の死について言い争う事のなくなるのには一年はかかったのだと思うと、私と彼は仲がよかっただけに涙が出た。逆縁は人にとって最大の不幸である。親より先に死んではならぬ。

   一周忌すぎてやうやくわが夢に顕ちたる妹夢にても死す

 一周忌が過ぎて妹の夢を見る。その夢の中でも妹は死ぬのだ。一緒にピアノの連弾をした妹は夢の中でも死ぬのだ。作者の妹さんへの思いは深い。

   四肢折りて死ぬ鹿のごと諦めしピアノが残るわたくしの部屋

 妹さんの死が先なのか、自分の眼の疾患が先なのか、明記されてはいないが、もう弾く事のないピアノが死ぬ鹿の様に部屋に置かれてある。音楽を学び音楽を捨てる決意は如何ほどであったろう。死ぬ鹿という比喩が重い。

   錫婚となりたる我らに会計は別にするかとウェイトレス問ふ

 珍しく諧謔の歌である。読んだだけで情景は誰にでも分るであろう。こういう歌に会うとほっとする。

   排卵のありて性欲のぼりゆくこの単純もあとわづかなり

 これも珍しく自分の性について詠っている。我々男にとって女体というものは神秘そのものである。妊娠、悪阻、分娩、哺乳、育児、どれをとっても男には分らない。

 これは見事な歌集である。私は読了した時、言い様のない感慨にとらわれた。行間から作者の啜り泣きが聞こえる。

 同じ学校に学び、ある者は死に、残った者も星の命に較べれば瞬間の生しかもはやないのだ。殆どが医師として人には言えぬ修羅と運命を背負って残照を何とか生きているのだ。

               (川野蓼艸氏寄稿)

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2006年1月31日 (火)

我が卒後五十年録 第2回

やがて二次会の余興が始まり、仕舞をやるのがいた。紋付袴で仲々のものだった。地は約束で私が勤めた。

ドン・ジョヴァンニのデュエットを歌った夫婦もいた。最後は童謡やら小学唱歌を皆で合唱して終わった。上のバーで三次会も開かれ、卒後五十年の感慨にふけった。

翌日はバスを仕立てて屋島観光に向かった。瀬戸大橋を渡るのは始めてであった。

屋島は嘗ては文字通り島であったが、現在、四国本土と陸続きになって、その部分は高松市のベッドタウンになっていた。しかし源平合戦の跡はきちんと整備されて残っていた。

那須与一が南無八幡大菩薩と祈った石は今は道路の地中にあるのだが、アスファルトを深く掘り込み、その石が見える工夫がしてあった。

与一はざぶざぶと海に駒を進めて矢を放ったのだが、波で馬の足が揺らぐのを防ぐため、大きな岩の上に馬の前足を乗せて固定した。その岩が小さな川の中ほどにあった。たたみ一畳分ほどの大きさで潮が満ちると海中に隠れるというが、私たちの時には運よく全貌が見えた。この岩の上の若者の弓から放たれた矢は虚空を飛び、扇は海に散ったのだ。

付近に安徳天皇の行在所跡、飛んでくる平家の矢が義経に当る瞬間にさっと中に入り、彼の身代わりになって死んだ奥州から付き添って来た佐藤継信の墓もあった。

岡山在住の者が説明に当った。安徳天皇を後醍醐天皇と言ったり、行在所をギョウザイショと発音すると、私が安徳じゃろう、アンザイショじゃろうと訂正するので、

「あんたがおるとやりにきいなあ。」

と彼も岡山弁で答えた。

 「平家は源氏が海からやってくるものと思い、北を向いて防備を固めていたらしい。ところが義経は徳島に百二三十騎で上陸し、平家の背後を襲って平家は海に退いたらしい。」

「俺も嘗てその話を聞いたけどなあ、それはちいと可笑しゅうねえか。平家は五千人もおったんじゃろう。後ろから来たら、すぐに後ろを向いて百二三十人くれえ、寄ってたかって引っぱたけば勝てたはずじゃがな。」

「そねん事を僕に言われても、僕はそこにいた訳じゃねんじゃから。あれじゃねんか。当時の防備は一番前に楯を並べて矢に備え、前の方に腕っ節の強ええのを並べ、大将は一番後ろにいて、やはり後ろは弱かったんじゃねえんかなあ。」

私は高松からJRに乗り、夜の瀬戸内海を渡り、岡山から東京に着いた。便利になったものだ。

               (川野蓼艸氏寄稿)

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2006年1月 7日 (土)

我が卒後五十年録 第1回

 蓼艸さんから久々に原稿をいただいたので、さっそく掲載します。全3回です。蓼艸さんの名調子で語られる味わい深いエッセイをお楽しみ下さいませ。

 一昨年の平成十六年は昭和なら七十九年であった。私達は昭和二十九年に大学を出ているから、一昨年が卒後五十周年に当っていた。岡山に集合し盛大な記念会が開かれた。

 昭和五十九年、卒後三十年に集った時は死者はまだ七・八名であった。招待した小児科の名誉教授は言われた。

 「亡くなった人が一割未満というのは、このクラスは優秀やなあ。しかしこの先が早よまっせ。」

 本当にその通りだった。卒業生八十名のうち二十六名が他界していた。当日、彼等の未亡人達も招待し、十名ほどが出席した。

 大多数は医師になり、小数の者は基礎医学を専攻して学者となっていたが全て退官していた。医師も現役は約半数で、多くが息子や娘に代を譲っていた。

 お互いに昔を知っている仲だし、七十五歳も過ぎると気取る必要もないので皆日頃の自分を淡々と語った。

 「男の子は幼時に小児癌で亡くなりました。家内は中年で白血病で死にました。今、四十歳半ばの独身の娘と二人暮らしです。一度は結婚してみろ、人を愛する生活を経験してみろというのに、聞く耳を持ちません。デザイナーですが、年をとればセンスも古くなります。私は娘が一生遊んでも暮らせるだけのものを残してやらねばなりません。毎日せっせと働いています。」

という話は身につまされた。ダウン症や脳性小児麻痺の子供を持つ者もいた。

 坊ちゃんで有名な松山中学を出、松山高校を経て一緒になったのがいた。背は低いが頑丈な体格でラグビーをやり、縞柄のジャージーが似合い、トラちゃんの愛称で呼ばれ、何をしても憎めない男がいた。

 彼は地元の松山で外科を開業し、盛業であったが、交通事故であっけなく死んだ。未亡人が立って言った。

 「夫は飲む、打つ、買う、の好き放題で死にました。思い残す事はない筈です。毎晩、三百六十五日、夜は外でした。

 深夜、ホステスや芸者に送られて帰ってくる事もありました。バーも梯子です。夫の足の遠のいた店の経営者が、奥さん、いい子が入りました、先生にお出でくださる様にお伝え下さい、と電話される事もありました。(笑)

 私は夫に性病だけは移さないでね、と言いましたら、大丈夫じゃ、大丈夫じゃ、と申しましたが、どこまで大丈夫だったのやら。(笑)

 根はぶきっちょで車の免許も持っていませんでした。あんたが居らんかったら、わしゃ何もでけん、わしより早よう死ぬな、と常に言っていました。

 普通の女だったらとっくに離婚していると人は言い、私もそう思いましたが、別れようにも実家は弟が跡を継いでいましたし、私も夫と別れたら一人で食べていく技は何もありませんでした。結局、別れず仕舞で(笑)、交通事故であっさり死んでしまいました。

 事故の原因ですか。家の前はかなり大きな通りですが、湾曲していて拙宅はその突出部の様な場所にありました。左右の見通しは悪く、横断歩道はあったのですが、近くの信号灯と距離がないと言う理由で信号はつけて貰えませんでした。

昼、夫はふらっと外出して事故に会いました。

 家の前ですからすぐに救急車を呼びました。車内で夫は、これであんたより先に死ねるな、と言いました。それが夫の最後の言葉でした。病院に着くまでに死にました。でも憎めない人でした。誰からもトラちゃんと呼ばれ、患者さんたちもトラちゃん先生と言い、一生を終わりました。

 やがて家の前に信号灯がつけられました。近所の人は、これは先生がつけてくれたのだ、と言ってくれます。

私もその横断歩道を渡る度に、これが夫の唯一の遺産なのだと思います。医院は息子が継ぎ私は隠居です。」

 高知から来た友人の話も気になった。

「自分には娘が二人いました。長女は東京の桐朋音楽大学に進んでピアニストになりましたが、医師に嫁ぎ現在ではピアノをやめ、歌人になっています。下の娘は女医になり、内科に入局させました。ところが不意の事故で夭折してしまいました。私の跡継ぎはなくなりました。」

と言って私の隣に坐った。

 彼と私は仲がよかった。上の娘さんは生後間もなく彼の家に行き自分の手に抱いた事があった。桐朋音大に入ってからは調布市内に学校があったから、拙宅にも来た事がある。風邪を引いて私が往診した事もあった。

 私は隣の彼に聞いた。

「不意の事故とは何だ。」

「まあ何だな、鬱になってね、病院に行かなくなったんだ。そのうち酒に親しむ様になってね。」

「依存症になったのか。」

「そうなんだ。ある日、酒のあとで吐いてね、誤嚥をおこして窒息死したんだ。呆気なかったな。

上の娘はすっかり気落ちしてね。精神的なストレスでなる事もあると聞いたんだが、中心性網膜炎となって視力が落ちて楽譜が巧く読めないんだ。結局は音楽は諦めて短歌を詠む様になった。最近、歌集を出した。」

「何、マリちゃんが歌集を? 俺も多少は短歌をやる。帰ったら川野にそれを送れと言ってくれないか。」

私の娘とほぼ同年であったから四十歳半ばの筈であった。

                   (川野蓼艸氏寄稿)

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2005年9月10日 (土)

R.N.マッキンノンさんの事 最終回

 そのうちマッキンノンさんの写真のコピーがリンコーナさんから宮川君に、彼から私に送られて来た。一枚は金澤時代のもの、エキゾチックな苦みばしった容貌は、今ならタレントとして通用するであろう。高月夫人が美男子と言われたのも尤もで、西教授が私以上に旧制高校生らしいと言われた凛々しい羽織袴姿であった。
 もう一枚は平成五年、つまり亡くなられる前年、講演で姉のリンコーナさんと小樽にいらした時、北海道新聞に載ったものだ。
 戦後五十八年、日米のはざ間で苦労されたマッキンノンさんご一家の事を是非知って貰いたいと思ってこの記事を書いたが、リンコーナさんのご了解も得ておく必要があると思った。
リンコーナさんから事実と違った記述がある、電話では又間違う可能性があるから、一度お会いして話したいと言ってこられた。
二月九日、日曜日の午前十時、都ホテルのロビーで落ち合った。リンコーナさんは私より十歳は年上の筈であるが、私と同年位にしか見えなかった。容貌も私の目にはは百%の外人であり、しかも眩しいほどの美人で、津田出身であられた。リンコーナさんに間違いを指摘して戴き、あとはご一家の事を色々お聞きした。
十九歳で母上に分れたマッキンノンさんは、母に何も尽くさなかったのが心残りだと悔やまれたという。それならお母さんの横に葬ってあげようか、とリンコーナさんが言うと、是非頼む、と応えられたとか。今、母上の傍らに眠っておられるのだから、これ以上の親孝行はあるまいと私には思われた。
リンコーナさんは、母は本当に立派ないい人でした、と言われた。実の娘にそう言われるのだから、母上はよほど人格の高い方であったのであろう。また歌人でもあられた。三人の姉弟に残された短歌のうち、特に述懐として詠まれた次の歌に私は強く心を打たれた。

<今更に何を嘆かんかかる日の いつかはありと思ひ知りしを>

戦前戦中を通じて母上には筆舌に尽くしがたいご苦労、ご心痛があった筈である。それを直接に歌われる事なくこの様に詠まれたのだ。
 ここには悲しいとか、辛いとか、そんな言葉は一切使われていないのに、誰の胸にも大きな断腸の悲しみが伝わる筈である。これは歌人として並大抵の力量ではない。
 私は東京の生まれではない。多摩墓地に葬られるのは異郷の地に眠る事になるのだが、近くに先輩のマッキンノンさんの墓がある事を思えば、私の死後はもはや孤独ではない。
 私が普段姿でマッキンノンさん!と呼ぶ。マッキンノンさんは、何だ、君か、上がれ、とおっしゃる。母上に、ママ、川野が来たのでお茶を淹れて下さい、と頼まれる。
 私の側には先輩がいるのである。
 私はリンコーナさんの口をついて出る滑らかな日本語を、不思議な気持で聞いていた。

mckinnon

(この写真の掲載をお許し下すったリンコーナさん、北海道新聞、及び突破口となった横山先輩に心から感謝します)

   (川野蓼艸氏寄稿)

この写真は、蓼艸さんから送られてきたものです。左側が亡くなる前年、右側が四高時代のマッキンノン氏の写真です。

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2005年9月 3日 (土)

R.N.マッキンノンさんの事 第4回

 私は早速日野市の佐久稔さんに電話したが、
佐久さんは意外な事を言われた。
 「私はマッキンが逮捕された時には蹴球部の塾にいたんです。しかし私は朝寝坊で下へ降りて行った時にはマッキンは既に連れ去られて行った後でした。私は堪りませんでした。仲のいい彼と別れの挨拶も交せなかったのですから。
 その晩、私は菓子を持って彼の監禁場所へ面会に行きました。彼は私を見つめ、私の手を放そうとはしませんでした。
私の頭の中にもマッキンとの三年間近くの思い出が走馬灯の様に駆け巡りました。何しろ蹴球部で一緒に球を蹴り合い、共同で他校のチームに当ったんですから。彼もそうだったと思いますが、私はこれが二人の今生の別れだと思いました。佐々木はマッキンに音楽的素養がないと言いましたか。おかしいなあ。
彼は茶寮近くの教室にあったボロピアノで乙女の祈りくらいは弾いていましたよ。音楽は相当に詳しかった筈ですよ。」
そのピアノは私達の時には講堂の控室にあった。鳴らない鍵すらあった。私はお姉さんのリンコーナさんに電話した。
「父がリチャードにピアノを教えていましたから簡単な曲なら弾けた筈です。」
との事であった。するとマッキンノンさんが楽想を練り、佐々木さんに歌って見せ、これ、どうだい、うん、いいんじゃない、こんなやり取りがあって、あの寮歌は作曲されたのに違いない。佐々木文平共同作曲になっているのはマッキンノンさんの思いやりだったのであろう。
マッキンノンさんの一年下でハーフ・レフトだった横浜の斎藤仁先輩は二人で時計屋に時計の修理に行かれたとか。
「時計屋がお名前は、と聞きますと、彼はぶっきらぼうにマッキンノンと言ったんです。
すると時計屋は、あゝ、牧野さんですね、と答えたものです。」
そうするとこの頃のマッキンノンさんはエキゾチックな容貌であったが、日本人に見えたのであろう。晩年の写真では外人にしか見えなかったのであるが。
 彼とアメリカで付き合いのあった私と同学年の宮川隆泰君は彼は外人としてはそう大きくなかったと言うが、蹴球部の人達は一様に我々の中では一番大きかったと言う。佐久先輩は
 「彼がフルバックにいると大きいので安心でしたね。でもどっちかと言えばぶきっちょでしてね、へっぴり腰で小回りは利かず、でも突進する時はするんだな。」
と愛情のこもった言い方をされた。
マッキンノンさんは戦後何度も来日され、昔の同級生や蹴球部、寮の友人にも会われた由。同級で蹴球部のフォワードだった世田谷の高月東一先輩に電話したら、何とパーキンソンで逝去された直後であった。
 私はまず非礼を詫びたが、夫人は嫌な口ぶりもされず、
 「マッキンノンさんは色白で大きく、それに何と言っても美男子でいらっしゃいました。」
と答えて下すった。
 矢張り同級の植田茂先輩も脳梗塞で入院中で最早会話は不能でいらした。植田夫人も、
 「主人は蹴球部ではなく登山部でしたが、マッキンノンさんとは仲がよく一緒にお茶を習いに行っていたとか。それも甘いもののなかった日中戦争の最中でしたから、お菓子が目的だったと主人が申しておりました。あの大きなマッキンノンさんが子供の様で。成績もよく人気者でいらしたそうです。」
と言われた。
 マッキンノンさんの骨を多磨霊園に埋葬する時、蹴球部の人達が中には夫人連れで立会い、リンコーナさんのお宅で偲ぶ会も開かれたと聞いた。私は彼らの友情に感動した。一人の外国の旧友をこの様に暖かく包みこんだ例は、周囲を見ても聞いた事がない。

                    (川野蓼艸氏寄稿)

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2005年8月27日 (土)

R.N.マッキンノンさんの事 第3回

 私がマッキンノンさんの消息を追っている事が母校の寮史編纂委員の耳に入り手紙が来た。マッキンノンさんは日米の架橋になった大事な先輩である。お前の調べた事を載せたい。
既に発表された寮史は中途半端な所で終わっており、誤謬も多いので我々が生きている間にきちんとしたものにして金沢大学に納めたいのだ。ついてはマッキンノンさんの事は今まで伝聞として伝わっているだけで、彼が確かに寮にいたという証拠を探して文章にしてくれないか、というのであった。
私は満更嫌いな仕事ではないから引き受けた。しかし私は横着な事に母校の名簿を持ってはいなかった。嘗て私は母校の会合に何回か出たが、我々は旧制高校の最後尾にいたので出席者の大半は年配の人ばかりであった。しかも彼らは皆殆ど旧帝国大学の出身であったから、昔はよかった、今の若い者はなっちょらん、といったエリート意識は私の好む所ではなかった。その後会合には全く出なかった。名簿すら不要であった。
私は同窓会本部から名簿を取り寄せ、マッキンノンさんと同年代の学年からアトランダムに電話をかけ始めたが、誰もマッキンノンさんを知らなかった。
我々がドイツ語を習い最後東大独文科教授になった西義之先生は、
「彼は一年上で文甲(英語専修)、僕は文乙(ドイツ語専修)だったから知らないね。でも一度だけ後姿は見たよ。腰に手拭をぶら下げ、僕よりずっと旧制高校生らしかったよ。」
と言われた。これでは話にならぬが、先生より一年上を探せばよいと分った。
 私はふと我が医師会の眼科の横山葉子先生のご主人が先輩である事を思い出し電話したが、結果的にはこれが正解であった。
 「マッキンノンさんは昭和十六年十二月に逮捕され、僕は翌年の十七年四月に入学したから
丁度入れ違った訳ですよ。従って僕はマッキンノンさんは全く知りません。しかし僕と仲のよかった本地健三君は蹴球部の塾にいたから、何か知っている筈です。僕が知らせておきますから彼に電話してご覧なさい。」
と言われた。早速私は大阪富田林の本地さんに電話した。
 「あゝ、私が塾に入った時にはマッキンノンさんの余香はまだ多分に残っていました。下駄箱にはマッキンノンさんの十一文半はあろうかという大きなサッカーシューズがはみ出す様に置いてありました。それに私達はマッキンノンさん作曲の寮歌を盛んに歌ったものです。」
と言われるので、私はそれはこうでしょう、と言い楽譜を見ながら歌うと、本地さんはソラで電話の向こうで私に合わせて歌われ始めた。
 歌詞も節も電話の向こうとこちらで完全に一致した。それは感激の一瞬だった。私はマッキンノンさんの至近距離にやっと到着したのであった。
 本地さんは、あの作曲を手伝った佐々木文平さんもご健在の筈ですよ、と言われた。
 今度は大阪池田市の佐々木さんに電話した。
佐々木さんは中寮三号でマッキンノンさんと机を並べて勉強された方だった。私は意外に簡単に目的地に到達したのであった。
 「あゝ、あれですか。私もマッキンも全く音楽的な素養はありませんでね。ただ口でフンフンと言いながら、つまり口三味線ですな、それで出来上がったんですよ。
 え、短調で作曲してありますか。私には全然そんな事は分りません。作詞は一年上の緒方亮輔さんでした。記念に三人一緒の写真を撮って貰いましたが何しろ六十年も昔でしょう。どこに紛れ込んだか分りません。
 マッキンは成績も優秀でしてね、クラスで常に一番か二番でした。矢張り同級で仲もよく蹴球部にいた佐久君を紹介してあげましょう。
彼は蹴球部ですから私より情報量は多い筈です。」

                    (川野蓼艸氏寄稿)

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2005年8月20日 (土)

R.N.マッキンノンさんの事 第2回

 マッキンノンさんに友人の一人が言った。
「俺はすぐにお前の文章だと分ったぜ。おくのほそ道の冒頭だろう。斎藤茂吉の歌だろう。
 たらちねの母は死に給うなり、たまきわる我が命なりけり、だろう。あれには参ったな。
 俺は当時山中で何時死んでもいいやという投げやりな気持だったんだが、あのビラのおかげで、お前がこの付近まで来ているんだったら、これは助かると思ったね。それから生きる望みが又湧いてきた。あのビラのお蔭だ。」
するとマッキンノンさんは言った。
「俺は君達の、マッキン、頑張れ、くたばるなは骨身に沁みたぜ。敵味方になったのに声をかけてくれる君達の気持に、拭っても拭っても涙が出てきて困ったなあ。あれで再び勇気が湧いたんだ。」
と言われたという。
 私はこの事を俳句や短歌の雑誌にエッセイとして書いた。間もなく会津若松の見知らぬ年配の女性から手紙が届いた。
 自分の姉は東京女子高等師範(現・お茶大)時代にマッキンノンさんのお姉さんと同級でした。生きていてこの文章を読んだら喜んだでしょうに、先年死にました。マッキンノンさんのお姉さんは大変な美人だったそうです、と書いてあった。
 私は直ぐにお茶大同窓会に電話した。調査の結果、確かにエリザベス・マッキンノンという女性が昭和十三年に卒業しています。
 昭和十七年、つまり開戦の翌年発行の名簿にはマサチューセッツ在住と書いてあるので、その頃には帰国されていたのでしょう、との事でそのクラス代表の婦人を紹介してくれた。
 その婦人は、エリザベスさんはカリフォルニア在住で、日本語で文章を書くのが次第に億劫になって困るそうです、妹のリンコーナさんは東京に住んでおられます、と言って住所電話番号を教えてくれた。
 私はリンコーナさんに電話した。彼女はハローと出られたが、私が日本人と分ると俄かにネイティヴな日本語で話し始められた。
「戦前に父がアメリカへ勉強に行く様にと言うので、私と姉は先に帰国していました。
 弟のリチャードと父は交換船で次々に帰国しました。しかし母は病気で動かす事が出来ず、昭和十八年、小樽で人知れず亡くなりました。
 私は戦後来日し東京に住む様になりました。母の遺骨を大事に守っていてくれた人の事が偶然に分り、私は母の骨を抱いて帰りました。そして多磨霊園に墓を作って埋葬しました。
 弟は平成六年に癌で亡くなりました。弟も母の傍らで眠っています。」
「分骨ですか。」
「いいえ、アメリカには分骨の習慣がありません。弟の骨は全部東京です。」
 多磨霊園は拙宅から車で十分もかからぬ。私は早速車を飛ばして多磨霊園に赴いた。
紫陽花がそこここに咲き、そぼ降るはつ夏の雨に濡れていた。 
 外人墓地の中のマッキンノンさんとお母さんの墓は容易に見つかった。個人的な事で恐縮であるが、私の家の墓とは至近距離であった。
 墓碑にはお二人のお名前と生年没年月日が彫られてあり、逆算するとマッキンノンさんが母上と生き別れになられたのは、マッキンノンさんが十九歳の時であった。私は讃美歌の一つや二つは歌えるが、ここではマッキンノンさん作曲の寮歌を歌おうと思った。
 私のテノールは無人の霊園に響き渡った。寮歌は日本人好みの物悲しい短調の旋律だった。
 それはマッキンノンさんの体の半分を流れている日本人の血がむせび泣いているのであり、母上に対する若いマッキンノンさんの気持が嗚咽しているのだと思った。
時空を越えて遠かったマッキンノンさんは目の前におられた。私はマッキンノンさんの半生を思った。万華鏡を見る思いだった。

                    (川野蓼艸氏寄稿)

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2005年8月13日 (土)

R.N.マッキンノンさんの事 第1回

 私が金澤の旧制高校に入ったのは昭和二十一年秋の事だった。考えてみるともう五十九年も前の事である。
 そして昭和二十一年から五十九年さかのぼると何と明治二十一年になる。日清戦争の六年前なのだ。昔の事を書いてもお若い方々には興味が湧かないかもしれない。
 入学と同時に時習寮というのに入った。入ると毎晩寮歌の練習が行われた。寮では毎年秋に記念祭が開催され、その際、その年の寮歌が発表される事になっていた。
 寮歌にも色々あって、末長く歌われるもの、自然に歌われなくなるものとあった。
 私は寮歌集をめくって一つ不思議な寮歌のあるのを発見した。第四十八回記念祭寮歌というのであり、私の知らない寮歌であったが、不思議というのは作曲者がR.N.マッキンノンと佐々木文平の二名になっている事だった。
 戦前、日本の高等学校に外国人が在学していたのか。作曲は外部に依頼したのか。いづれも考えられない事だった。
 私は当時仲のよかった友達の下宿に遊びに行くと、石田さんという金沢医大(現・金沢大学医学部)の先輩がいて、寮歌集を見ながら、おや、マッキンノンさんが作曲した寮歌があるんだな、と言った。
 私はかねてから不思議に思っていたので、
 「うちに外国人がいたんですか。」
と聞くと、石田さんは、
 「いたんだ。小樽高等商業の英語の教授の子息でお母さんは日本人だった。背が高いから剣道の時には坐っていても一人つくんと目立ったそうだ。面を叩かれると痛かったというね。
 彼は何度も東京のアメリカ大使館に呼ばれ、
国籍をどちらにするかと聞かれたそうだ。
結局は彼はアメリカを祖国に選んだ。アメリカは国籍は生地主義だったんだね。
 昭和十六年十二月八日、第二次大戦が始まった。彼はその頃蹴球部の塾にいたんだ。今ではサッカーというが当時は蹴球だった。
 塾も運動部の連中が一緒に寝泊りするのをいったんだが、まあ、合宿所だな。
 朝早く憲兵と特高が彼を拘束に来た。彼は部員を全部集めて言った。諸君の国と俺の国が戦争をする事になった。
 もし諸君が戦場で俺を見たら遠慮なく俺を撃て、俺も君達を見つけたら銃の照準を定め、目を瞑って引金を引くだろう。今日までの君達の友情には心から感謝する。健康を祈る。こう言って一人一人を抱きしめ連行されたそうだ。
 彼は裁判所の裏の教会の牧師館に収容されたらしい。運動部の連中はウオーミングアップとして外堀を一周するんだが、その牧師館の前を通るんだな。聞こえるかどうか分らないのに、皆、マッキン、頑張れ、くたばるな、と叫んだというね。俺の知っているマッキンノンさんの知識はこれだけだ。」
と言った。何しろ終戦の翌年の事だから石田さんの情報がそこで終っているのは当然だった。
 その後、私は年を経て当地で開業した。その頃から新聞でワシントン大學日本文学科教授・R.N.マッキンノンの署名入りの記事を目にする様になった。
 私は、あゝ、これはあのマッキンノンさんに違いないと思った。今回、母校から戦後史が発刊された。それによればマッキンノンさんは昭和十七年春に交換船浅間丸で帰国、米軍言語将校になられたという。
 フィリッピンで日本軍に対して投降勧告のビラの作成に従事されたとか。
戦後、マッキンノンさんは何度も来日され旧友に会われたという。その中にフィリッピンでそのビラを読んだ人がいた。

                    (川野蓼艸氏寄稿)

今回から週1回、全5回の形式で、蓼艸さんの『R.N.マッキンノンさんの事』を連載します。もともとこれは医師である蓼艸さんが医師会の会報のために書かれた文章なのですが、僕は前田圭衛子さんの連句誌『れぎおん』に転載されたものを読み、それが非常に面白かったので、今回、蓼艸さんに頼んでこのブログに再び転載させていただくことになりました。転載するにあたり、蓼艸さんがこのブログ用に多少書き直してくれたことに深く感謝しています。

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2005年7月28日 (木)

 彼は彼の友人から女を引き受けてくれと頼まれた。

 「どんな女なんだ」

と問うと

 「服飾デザイナーなんだがね、もう飽いちゃったんだ。吉祥寺のボーリング場に来てくれ」

 行くとなるほど彼と彼女らしき女が球を投げていた。

 エキゾチックな容貌と均整の取れた体格であった。

 友人はさりげなく姿を消した。

 駅近くのマロンという喫茶店に入った。彼女は言った。

 「私、そんなに良くはないのよ。だから彼も貴方に私を譲ったんでしょう」

 彼女は熱帯魚の大きな水槽を背にして坐っていた。底に鯰の様な魚が沈んでいた。

 なるほど彼女はさほど良くはなかった。

 最も困るのは会話に内容のないことだった。

 彼には女性の服飾の知識はなかったし、彼が専門の国文学の話を分りやすく解説して聞かせても、何の反応も見せなかった。

 結局は二三度逢っただけで分かれた。

 それから何十年もたった。彼は妻帯もし二人の子もちになった。 ある日、彼は妻と井の頭公園の夜桜見物に出かけた。

 帰りにマロンに寄った。水槽を背にする様に妻は坐った。

 底にはまだ鯰の様な魚がいた。自然、彼と魚の目が合うことになった。

 魚はお前の悪事は知っているぞ、という様に彼を見ていた。

                   (川野蓼艸氏寄稿)

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2005年6月29日 (水)

東電OL殺人事件

私が幼かった、確か幼稚園に行っていた頃の事です。ある日、一人の紳士がやってきて私に、お嬢ちゃん、と声をかけ

 「上着を取ってご覧なさい」

と言いました。何しろ子供ですから私はその通りにしたところ、彼は私の胸の蓋を開け、小さな砂時計を中に入れ

 「いつか取りに来るからね」

と言って去って行きました。私は夢かうつつか分りませんでした。私はそんな事、忘れて大きくなっていきました。

 私は小学校から高校まで優等生で通し、慶応大学を出て、東京電力に就職しました。会社でも何でも出来ると重宝がられ、優秀社員でした。やがて管理職に抜擢されました。

 男性たちは私を知的だけれど冷たい感じがすると言っている様でした。でも言い寄ってくる男もいて不自由はしませんでした。不思議な事に誰とも長続きはしませんでした。

 昼休みの時間、私は誰もいない会議室に行き、椅子を並べて横になり休息をとりました。ある時、人に見られ、女のくせに、と言われましたが、人のいない会議室に寝て何が悪いの、としか思いませんでした。

 何時の頃からか、私は自分の体が熱く疼く様な気がする様になりました。どうしようもない感じでした。

 ある日、渋谷の路上で真面目そうな若い男に

 「貴方、私と寝ません?」

と声をかけました。当然ながら相手は怪訝な表情で私の頭のてっぺんから足先までしげしげと眺め、おずおずと

 「僕でいいんですか」

と言いました。近くのラヴ・ホテルに二人で入り、私は先にスーツを脱ぎました。

 これが私の売春の最初でした。一度始めると歯止めがききませんでした。当時、年収が一千万はあり、経済の論文も書き、評価もされ、優れたキャリアウーマンと言われていたのに、なぜ売春が止められないのか自分でも不思議でした。

 私はふと自分の体の中に砂時計が入っている事を思い出しました。そのせいか、何時もではありませんが、時々、さらさらと砂の落ちる感触が胸の中でする様になりました。

 私はラヴホテル乱立の渋谷円山町の道玄坂地蔵の前に立って客を拾いました。しかし神泉駅の最終電車に乗って帰り、親には何食わぬ顔を通しました。

 詳しい事は佐野眞一さんの「東電OL殺人事件」という新潮社の本に出ています。

 私も三十九歳となり、客がなかなかつかず、お利口さんぶった男、エリート、優等生、こんなのも嫌になり、私は少しグレードを落としました。ブルーカラー、職人さん、アジア人等でした。一人、二・三千円でも私は承知しました。

 ある日、その日のノルマを果たしたあと、神泉駅の終電に急いでいましたら、見知らぬ紳士に呼び止められました。

 「私を覚えていますか」

と聞かれました。とっさに私は幼稚園の頃、私の胸に砂時計を埋め込んで帰った人を思い出しました。彼は

 「もう取り出してもいいでしょう」

とそう言って、駅のすぐ前の暗い粗末な無人アパートの一室を開けて二人は中に入りました。電気も切られていて点かない事は承知していました。というのは、その空きアパートはホテル代がないと言う相手を、私が無理矢理にその中に誘い込み、何回か無断使用した事があったからです。

 彼は無造作に私の胸の蓋を開き砂時計を出しました。それは私の成長と共に大きくなっていました。そして今しも砂が綺麗に下の器に落ち切るところでした。僅かにさしこむ早春の街灯でそれが分りました。彼は私を横にすると私の上に馬乗りになり、徐々に私の首を締めていきました。

 私は次第に遠のく意識の中で、この人は情欲の神様が私に派遣した男だと思いました。間もなく私は死にました。

 無住アパートですから、私の死体発見は十日も経ってからでした。連日新聞は「東電OL殺人事件」、「昼エリート、夜娼婦」としてオーヴァーに報じていました。

 アパートの斜向かいに中国茶の店がありました。ある日、ベレー帽の男が神泉駅で降り、何か探す様にあたりを見まわし、その店に入って主人に聞き始めました。

 「ご主人、あの事件のあったアパートはどこですか」

 「ほら、あそこですよ」

 「外階段のある、あの汚いのがそうですか。ご主人、こん  

 な真近にいて、あのアパートについて何もお気づきになら  

 なかったんですか」

 「気がつきませんでしたね」

 「警察が死体を引き取りに来た時びっくりしたでしょう」

 「いえ、私もご近所も何時警察が来たんだか、誰も知りま  

 せんでした」

 死ぬ直前、そのアパートに入るところを人に見られていました。私が一人のアジア人と入っていったと言うのです。

 そのため一人のネパール人が犯人として逮捕されました。私はそうじゃない、真犯人は誰々と言いたいのですが、それが誰だったのか正直言って名前も知らないのです。

          (川野蓼艸氏寄稿)

 タイトルの「東電OL殺人事件」は、97年に東京都渋谷区で実際に起こった事件なので、ご記憶の方も多いと思います。事件について、詳しくはこちらへ→東電OL殺人事件

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